川之江城

別名 仏殿城
    河江城
     土肥城 
付近住所 愛媛県四国中央市川之江町 現在- 
2009/9/21 碑・案内板・模擬天守アリ 日本城郭大系


土肥義昌
河上安勝

小早川氏
福島氏
池田氏
小川氏
加藤氏
 南北朝動乱の頃(約650年前)南朝方、河野氏の砦として、土肥義昌が延元2年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。
 興国3年(1342)北朝方、細川頼春が讃岐より7千の兵を率いて攻めてきた。
 義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落ちのびて各地を転戦した末、武蔵国矢口の渡で戦死している。
 細川氏の領有後、河野氏に返され城主は妻鳥友春になった。元亀3年1572)阿波の三好長治が攻めいったが、撃退している。
 土佐の長曾我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長曾我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝に命じて城を攻めとらせた。天正7年(1579)前後のことと思われる。河上但馬守は轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582)長曾我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。その時、姫ヶ嶽より年姫が飛込んで自殺したという悲話伝説も残っている。
 天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替り、加藤嘉明の時最終的に廃城になった。数々の攻防は川之江が地理的に重要な位置にあった為の悲劇ともいえる。
 戦国の世も終わった寛永13年(1636)一柳直家が川之江藩28600石の領主になり城山に城を築こうとしたが寛永19年(1642)病没。領地は没収されて幕領となり明治に至ったため、わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。

          

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